穏やかな海辺でシーカヤックを楽しむのもおすすめである。

 カナダは「北国」というイメージが強いせいか、春は遅いと思われがちだ。しかし、西海岸の南部では2月も末になれば春の足音がはっきり聞こえてくる。水仙やクロッカスが咲き始め、早咲きのシャクナゲさえもつぼみが膨らむ。フィヨルドの海峡に浮かぶボーエン・アイランドでは、温かな海流に守られてひときわ春が早い。





 ボーエン・アイランド行きの小さなフェリーは、バンクーバーのダウンタウンから車で30分ほどのところにあるホーシュー・ベイから出航する。ホーシュー・ベイは、その名のとおり馬蹄形をした小さな入り江。フェリー乗り場の周辺には、素朴な雰囲気のカフェやローカル・アーティストの陶芸や染色の作品を集めた店が並んでいる。

 ホーシュー・ベイの北側に広がっている深い入り江は、ハウ海峡と呼ばれ、北米で最も南にあるフィヨルドの一つ。1万5千年前、氷河がここを通り過ぎた跡に残された複雑に入り組んだ美しい海岸線が見渡せる。ボーエン・アイランドも、氷河が残してくれた贈り物のような島だ。ホーシュー・ベイからはたった20分の船旅だが、「海峡を渡る」という気分は十分に味わえる。デッキに出れば、目の前には沿岸部山岳地帯のたおやかな山並みが続き、入り江の奥を眺めると頂上付近に氷河がキラキラと輝くのが見えるだろう。波はいつも穏やかで、水面を渡ってくる風も柔らかで温かい。


島へはフィヨルドの深い入り江を渡って行く


ホーシュー・ベイの港からは、バンクーバー島行きの大型フェリーも発着する。

 

 フェリーがボーエン・アイランドに到着すると、船着場の目の前に屋根に展望台の付いたクラシカルな建物が見える。この建物には、「ユニオン蒸気船会社」という古い看板が掲げられている。今は静かな島も、かつては全く雰囲気の違う場所だった。この建物や看板は、その当時の名残りなのだ。

 カナダの西海岸にあるバンクーバーやビクトリアは、今も「英国の古き良き時代」の雰囲気をそこはかとなく残している。20世紀初頭にはなおのことだ。しかし、すぐお隣の米国からは「モダン」の風が強く吹いてきていたので、普段は伝統的なジェントルマンやレディらしい暮らしをしていても、週末ぐらいは少しリラックスしてみたいと思った人も多かったようだ。そこに目をつけたのがユニオン蒸気船会社だった。

 当時としては、とてもおしゃれな蒸気船が着飾った人々をボーエン・アイランドに運んで行った。島は堅苦しいバンクーバーとは別世界。大きなボールルームでダンスに興じたり、少しはめをはずしてお酒を飲んでも、「島の中で起こったことは、島の外では語らない」のがお約束・・・・という、派手なリゾート地だったというわけだ。

 ところが、蒸気船がすたれるにつれて、この島の運命も変わっていった。気まぐれな人々は、もっと刺激の強いリゾート地へと関心を移していったからだ。それから長い間、この島は町の人々からは忘れられた場所だった。しかし、1970年代になって、この島の豊かな自然に気づく者が現れた。最初は静かに作品を作る場所を求めていたアーティスト、そして次は西海岸の温帯雨林を守ろうという運動を始めた人々だった。

 島の森林は、これらの人々の努力によって伐採をまぬがれ、今、この島はハイキングや野鳥観察、シーカヤックなどのメッカとして知られるようになった。夏の週末には、フェリーが着くたびにたくさんの人が乗り降りするが、春の平日ならゆったりと過ごすことができるだろう。ここを訪れるなら、ユニオン蒸気船会社の時代に植えられた桜やリンゴの木々が花盛りになる、3月から5月にかけてが特におすすめだ。



ユニオン蒸気船会社の建物だけが、かつての「派手なリゾート」時代を物語る。



クリッペン公園管理局は観光案内所もかねている



 熱帯雨林が消滅の危機にさらされている、というニュースはしばしば伝えられるが、温帯雨林の危機については案外知られていないのではないだろうか。カナダの西海岸は、この貴重な人類の財産が残されている数少ない場所だが、森林産業の維持と温帯雨林の保護との調和はまだまだ難しい課題のままだ。

 氷河が大地を削り取って通り過ぎた結果、この周辺は堅い岩盤が露出しており、岩を覆う表土の層は極めて薄い。巨大な杉の木々も、薄い土の中に根を広げる危うい存在なのだ。地面の上に落ちた種が自然に発芽する可能性も低い。古木が倒れて地面に横たわり、それが腐って「ベッド」にならないと、なかなか新芽は出てこられない。森林産業を支えているのは、森の自然更新ではなく、絶え間ない植林の努力なのだ。

 ボーエン・アイランドに上陸したら、まず赤い壁が目印の公園管理局を訪れよう。この建物もユニオン蒸気船会社の残したものだ。ここで、島のハイキングルート・マップを入手することができる。森の中をたどるクリッペン公園の散策路は管理局の建物のすぐ裏手から始まっている。公園に入ると食べ物や飲みものを売っている場所は全くないので、港の周辺で食事をするか、展望塔のある建物の中にある店で食べ物や飲み物を入手すると良いだろう。



滝には鮭の遡上を助ける階段がある





この島には可愛らしい住宅を改造したカントリーインやB&Bがあるので、数日ここで過ごすのがベストだが、半日の滞在でも十分に森の散策を楽しむことができる。クリッペン公園のハイキング・ルートをたどって、まず小さな滝を目指してみよう。

 カナダの西海岸には様々な種類の鮭が生息している。産卵期になると、生まれた場所へ戻るため、海から川を遡上して陸地へ入っていく。ボーエン・アイランドも豊かな鮭のふるさとだ。散策路の途中にある滝は、その姿は美しいが、川の小さな段差という感じの高さしかない。しかし、鮭が遡上するためにはなかなかの難所のようだ。そのため、滝の横に人工の「階段」が設けられ、鮭が徐々に川を遡っていかれるように工夫されている。さらに、この「階段」の先には小さな孵化場があり、鮭の産卵を助けている。

 カナダの西海岸に住むファーストネーション(先住民)の人々にとって、鮭は食料の中心であり、生活と文化の基本だった。この地域の人々が、トーテムポールなどに象徴される極めて高度の文化を育んできたのも、杉やヒノキの森と豊かな食料に恵まれてきたからだ。この島の孵化場にも、ファーストネーションの人々の知恵が生かされている。川を遡上し、産卵を終えた鮭は、白頭ワシなどの野鳥や動物たちにとっても貴重な餌となる。さらにはそれらの動物の糞、腐敗した鮭などが、森を育む栄養に変わっていくのだ。森を歩いて学ぶ、自然のサイクルの巧みさにあらためてあらためて驚かされる。


杉の巨木が並ぶ散策路

 

この島の再発見と自然保護に力をつくした画家や工芸家たちは、今もここで作品を作り続けている。港を見下ろす小高い丘の上にあるアーチザン・スクエアーには、アーティストたちが共同で運営するお店がある。おおらかな自然の中で暮らす人々ならではの、やさしさを感じさせる陶芸作品や小さなアクセサリーなどが売られている。また、ここには手作りパンの店や、ココアのおいしい小さなカフェなどもあるので、散策の後の一休みにもぴったり。

この島は、訪れる人の心をたちまち穏やかにしてくれる。時はゆっくりと流れるのに、一日がたつのがとても早いような気がするのが不思議だ。

(取材・文責/宮田麻未  写真/神尾明朗)
★この記事は2005年4月の取材をもとに構成したものです。




レストランやアートギャラリーなどが並ぶ、アーチザン・スクエアー