エコピープル|レポート11: 総合環境企業ミヤマ株式会社社長南 栄嗣さん


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さて、ミヤマ社長室に戻りましょう。

祖母の遺言を胸に秘めて

――社長が、産業廃棄物処理の会社を興された経緯を教えていただけますか?

長い物語になるけれど、いいですか?

――もちろん。是非お聞かせください。

親父は僕が5歳のときに亡くなり、お袋は7歳のときに死んじゃったんですよ。それから、兄貴と僕とで母方の祖母に育てられていたんですね。昭和21年(終戦の翌年)に東京都立川市の農業試験場に就職するまで、親戚の間をあっち行ったり、こっち行ったりしながら育ててもらいました。たくさんの人にお世話になったんですよ。そこで祖母は僕に言いました。「栄嗣は多くの人のお世話になったんだから、いずれ時機が来たら、世の中のためになる仕事をしなさい、そうして恩返しをしなさい」と。それが、遺言のように胸に残ったんですよね。

やがて、農業試験場で働くようになったけれど、あまり役所の気風に合わなくて、辞めました。辞めたのはいいけれど、当時はなかなか仕事がなかったんですよ。そんなときに、農業試験場でのかつての上司に出くわしてね、少し醸造関係のことがわかったから、大阪にある酒造メーカーの社長に紹介されて、大阪に行くことになったんですよ。僕のあるアイデアを研究開発するという目的でね。でも、それはうまく行かなかった。もう東京に帰ろうと思ったところ、社長に止められて、その酒造メーカーに正式に就職することになったんですよね。

そうこうして働いていたんだけど、忘れもしない昭和31年(1956)10月11日、社長室に呼び出されました。「すぐ、長野へ行け」って切符を渡されたんですよ。長野のある酒造メーカーが倒産して、大蔵省から買収してくれって頼まれたんです。その酒造会社を再建しろっていうのが、僕の任務だった。製造担当の僕と、税務担当者と工場長と3人で長野に派遣されたんですよ。
長野県に着くなり現地に出向いたら、まるでお化け屋敷でしたよ。至るところに「差し押さえ」の張り紙がしてあるし、辺りには食堂はない、風呂屋はない、旅館はない、なんにもないところ。

清酒を造れ、というのが会社の指示だったから、灘から蔵人を集め、桶をつくり、ともかく2ヵ月ですべて工事を完了し、なおかつ税務署に酒造免許の申請をして、お米の割り当ても申請しました。当時の睡眠時間は毎日2時間でしたよね。なんとかスタートして、その年の造りは終えたんですよ。
3年くらいやったら本社に帰れると思っていたんだけれど、次はアルコール工場を買収せよ、という指示で、アルコールを造りだしました。それ以降は3つの工場を一人で仕切っていた。当時28歳、馬力があったんですよね。

昭和39年、本社が大手酒造メーカーに買収されるという話が持ち上がったんです。労働組合は猛反対。僕がそれを取りまとめて、合併会議に出席しました。そうしたら、元の会社に残るものは何もない。そこで1年くらい膝詰談判をやって、リストラも含めた合理化計画を提出して、なんとか長野での酒造りは続けられるようにしました。もらった資金で事務所を変えたり、ボイラーを変えたり、システムをつくって調えたんですよ。そのとき僕が出した条件が、「10年で立て直すから、立て直した暁には会社を辞めさせてくれ」と。約束の10年目が昭和49年。そろそろ自分の身の振り方を考えようと思いました。祖母の遺言に従って、ね。実行に移すときがきた、と思ったんですよ。

いよいよ会社設立へ

昭和46年に「廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃棄物処理法)」が制定されました。その頃から、僕の会社に瓶を納入していた業者に、この法律を生かして商売がしたいと相談を受けていたんですよね。昭和48年のオイルショックのときだったかなぁ。一般廃棄物のリサイクル施設を造りたい、と。当時はまだ「リサイクル」ってことはあまり言われていなかったけれども、リサイクル工場の設計を頼まれて、市役所に提出する計画書をつくりました。そうしたら通ったんです。それをきっかけに、ついに会社を辞めました。造った工場はね、中2階のベルトコンベアにごみを流して、その両脇に控えた数名がアルミ缶や鉄缶、プラスティック、ガラス、金属くずなどシュートで6種類に分類して、下に設置したストックヤードに集める。集めたものはプレスして、リサイクルの素材とする、というもの。当時そんなしくみの工場は無かったから、市役所も驚きましたね。また、あっちこっちから同じような工場を造ってほしい、という依頼を受けて、図面を引いてあげたりしました。ただ、まだ自分で工場を運営することはしなかったんですよ。環境の仕事がいいな、とは思っていたんですけどね。

昭和49年、ミヤマ商事を立ち上げました。最初は廃水の処理に取り組んだんです。酒造メーカーをしていたときに、周辺の廃水処理をした経験があったから。それに、もともと酒造メーカーを辞めたときの退職金が200万円。この資金でやっていける事業となるとごみ処理だ、と。ごみ処理は元手が少なくて済みますから。
そうするうちに、車のハンドルの素材であるウレタンのリサイクルを頼まれたんですよ。溶液にしたものに発泡剤を入れ、発泡させてリサイクルをすればいい、ということでした。特許を借りて設備投資をしましたよ。6ヵ月間やってドラム缶2000本程のウレタンモノマーを製造しました。ところが、造ったものの発泡性が均一じゃない、とクレームが来たんです。

でも、こちらは特許通りに造っていましたからね。交渉の末、設備投資額の弁償の代わりに、うちの会社に産業廃棄物を回してもらうことになりました。そこで、設備投資した施設を使って、産業廃棄物の中間処理を始めたんですよ。有害金属を海洋投棄ができるまで無害化する、という処理です。やがて、工場を増やしつつ、廃アルカリ、廃酸など、あらゆる産業廃棄物を処理する許可をとって、中間処理の幅も広げていったんです。
すでに会社を立ち上げてから27年。仕事を始めたときから今にいたるまで、ずっと祖母の遺言が胸にありましたよ。>>次のページ