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近代建築は白い

――内藤さんは、ずっと以前から「時間」ということを提唱してこられたわけですが、どういったきっかけで意識されるようになったんですか。

 時間のことを考えるようになった契機は、決して哲学的なものではないんです。「あっ、時間ってことを誰も言ってないな」と思うようになったのは、大学を卒業した頃です。ちょうど磯崎新さんが『空間へ』という本を書いて、それが建築科の学生のバイブルのようになっていたんです。でも、僕はなんかおかしい、違うと思っていたんですね。そのときに「時間」を考えてみたらどうだろう、と思ったわけです。

それで、いろいろ調べてみたら、僕が大学で習った近代建築のさまざまな事柄っていうのは、時間の話をゼロにしてるんですね。意図的に時間係数をゼロにした上で、こんな建物ができますとか、こんな都市ができますとか、こんなに自由に建てることができますっていう、そういう考えが近代建築の根っこにある、と気がついたんです。20世紀の初頭にダダイズムという運動がありました。

「既成概念からの離脱」が言われ、どうやって19世紀から切り離された新しい文化をつくり得るかが提起されたわけです。この発想が近代芸術の根っこです。これはかなりの破壊力を持っていた。そこへ、ロシア革命が起こった。その影響も受けつつダダイズムは、全く新しい価値をつくろうとしたのです。そのときに問題になったのは、ヨーロッパに連綿と流れている重苦しい歴史であったり、時間であったりした。それを切ってしまおうとする。モダニズムの初期もその流れを受けて意図的にそういうことをやりました。

 だから、近代建築は白いんです。白い建築っていうのは、今日より明日の方が価値が下がるわけです。近代建築が白いのは、時間係数をゼロにしようとしたからです。1 年後や10年後のことを考えたら、外壁を真っ白になんか塗れないですよ。 
僕は、いろいろ考えるうちに、それはおかしいんじゃないかということに思い当たった。
 たとえば、月に宇宙基地を建てるとして、20世紀型の近代建築では、建てる基地だけが問題で、周囲の環境との関わりは取りざたされない。まさに「断絶」ですね。でも、21世紀の建築は環境と関連せざるを得ない。「接続」の時代になったと思うんですよ。まあ、ともかく、そうこうするうちに「海の博物館」を設計することになったんですね。

 先に収蔵庫が出来上がりました。収蔵庫に置かれている船だとか、網だとか、そういうものは日常の時間を生きてきたものです。僕はあるとき、「博物館って何なんだろう」と考え初めて、館長と話をしたりする中で、日常に流れている時間をできるだけ遅くするのが、博物館とか収蔵庫の役割なんだと思いいたりました。日常で使われたら10年くらいしか耐久年数がないものが、文化財として収蔵庫の中に入れると100年もつようになる。つまり、齢をとっていくスピードがうんと遅くなるわけです。このことに気がついて、建築っていうのは時間を再構成するってことがあるんだなぁ、と思ったわけです。

――でも、内藤さんが近代建築の根っこに気づかれた頃の日本は、最後の学生運動が放熱していた時代にあり、まさに過去を断絶し、共同体を断絶し、個人が個としてある方法を模索していた時代だと思います。そうした中でどうして内藤さんは、「時間」という「断絶」とは逆行する概念を発想なさったのでしょうか。

 学生時代の僕は、正直に言って、近代建築を見ても感動しなかったんですよ。心を揺り動かされた経験がなかったんですよね……。建築科に学びながら、建築家になるのは辞めようかと思っていたくらい(笑)。

 一つには大学生活にあまり充足感がなかったんですね。建築をやることに対しても。それには学生運動の影響もあったかもしれない。というのは、友だちなんかと話をすると、「まともに建築を造ることに意味があるか」という論調になってしまうわけです。なぜなら、建築っていうのはどうしたって大きなお金が動きますから、政治や資本といった、社会とコミットせざるを得ない。しかし、学生運動というのは反体制です。だから、世の中に揺さぶりをかけて変えていこうとする動きの中では、建築にこだわるなんて言語道断だという雰囲気があったわけです。そういう空気の中にいて僕も「そうかなぁ」と思った時期もありますしね。

 つまり、出発点に疑問符があったわけです。もし、それでも情熱を感じることができたらやろうという意欲が持てたかもしれないけれど、それもなかった。何しろ近代建築に感動していなかったから。

 ヨーロッパに旅行しても、僕は建築なんか見てなかったんです。人の動きを見ているほうが面白くて、有名なカテドラルに行っても、カテドラルを背にしてそこを訪れる人を見ているような感じ(笑)。ほとんど建築を見なかったですね。

 でも、僕が大学を辞めないで続けた理由は、僕の先生、吉阪隆正先生と話がしたかったから。先生と話がしたくて大学院まで行ったんです。別に建築でどうしようとか思っていたわけじゃない。でも、建築以外のものが思いつかなかったことも事実です。そうこうして、建築をやっていこうと決心がついたのは38歳のときでした。
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