私たちの瀬戸内/上嶋英機

瀬戸内に注がれるひとつの眼差し
21世紀を迎えて




自然環境を修復・再生に導くには、病人を前にした医者同様、まず現状をきちんと“診断”すること。次に自然を再生させる確かな“治療技術”を保持していることが求められます。環境を見守る専門家が“カルテ”である過去のデータを検証し、現状を正確に判断し、修復方法を協議し、実際に修復作業に関わる実施者と連携を保ち、管理・統括部門を牽制すると共に積極的にサポートする体制が必要なのです。
日ごろの地道な調査の継続、将来への目標値の設定の実証実験のプロセスは非常に重要です。関係者全員が処方箋と治療指針をしっかり共有し合うことが期待されるのです。

2002年12月の閣議決定で沿岸域などの環境改善を推進すべく『自然再生推進法』が制定されました。環境省が草案を作成し、国土交通省と農林水産省がそれを実施するという、日本の省庁間ではまれにみる、お互いの垣根を越えた横断的な法律がやっと成立したのです。これは実に画期的なことです。
しかも、ここで“再生”という言葉が使われていることは大変意義があります。ほんの数年前までは、“修復”という言葉を盛り込むだけでも各方面からの抵抗を受けていましたから。
21世紀、“自然を再生する”という自然環境との向かい合う姿勢が、ここに確立したのです。ひとつのステップを漸くクリヤーしたことになります。

瀬戸内海国立公園の実態




瀬戸内海はご承知のように、近畿・中国、四国、九州の沿岸によって囲まれた内海です。現在、その周辺には約3000万人の人々が住んでいます。
【シルクロード】の定義など、近代地形学の創始者として知られるドイツ人地理学者、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン(1833-1905)も、1860年に瀬戸内海を訪れ、その感動を旅行記に記しています。以来、瀬戸内海はその独自の美しい景観で世界的に広く知られる場所となったのです。もちろん日本史を振り返っても、交通のみならず、政治、経済、文化の面でも極めて重要な役割を演じてきた場所です。

そして、この瀬戸内海はわが国で最初に制定された国立公園でもあるんです。昭和9年(1934年)、3000に及ぶ島を擁する瀬戸内海国立公園は、東は六甲山から西は国東半島までの東西440キロ、南北では7?22キロ、面積にして220万ヘクタールの広大な地域を国立公園として指定されたのです。

そして昨年、指定から70年の時間を経た瀬戸内海国立公園を改めて見直すべく、環境省の肝いりで調査を開始しました。国立公園の地域指定には【海域指定】、【陸指定】というのがあります。まず、海域指定の根拠は、“景観”、つまり見晴らしの良さで決まり、微妙な定義ですが2キロ先が見えることとなっていたようです。次に【陸域指定】なんですが、実は国立公園指定場所は無数にあるのです。それぞれがバラバラに点在し、まとまったサイト(Site=場所)ではないのです。たとえば、島丸ごとでの指定は宮島だけで小豆島はその一部と言った具合です。どこが国立公園なのか、多くの住民は多分知らないと思います。

瀬戸内海国立公園の陸域指定を受けている場所は全体で約63,000ヘクタール(ha)あるのですが、その中で、国有地が約14%、市町村の所有が約29%、そして民間地が約57%という具合です。これからも分かるように、驚くほど国有地の公園が少なく、半分以上が民間地であることです。これでは国立公園の存在が分かりません。住民たちが“国立公園がどこにあるのか”をはっきり知らなければ、その保護も規制も実効性がありません。
“知る”ということは“守る”へ繋がる第一歩です。ですから私たちはフィールドワークを重ねながら、瀬戸内海国立公園の正確な地図を作成すると共に、住民たちへのアピールをしています。
自然再生には、まず“私たちは何を守るべきか”を理解することから始めるべきではないでしょうか?



瀬戸内海の再生に向けて






高度成長時代、戦後の開発と都市化の進展によって、環境の悪化、生態系への被害が深刻化していました。その中で赤潮等の漁業被害も発生し、1978年、『瀬戸内海環境保全特別措置法』が制定されるに至りました。つまり、この法律自体、ポジティブに自然を保護しようというものではなく、どうにかしなければならないぎりぎりの状態に歯止めをかけるべく成立した法律です。以来、各レベルでのさまざまな努力と尽力によって、水質汚濁防止などでは一定の成果を着実に上げてきました。

しかしこれからは、森から川、河口から磯、干潟から藻場までを連続した自然環境、つまり“SITE=場”として瀬戸内海を捉え、総合かつ複合的に対処することが重要なのです。そのためにも、過去の開発や都市化で損なわれた自然環境と失われた生態系を知り、具体的な合意目標に向って、各分野の人々が連携し、“私たちの海”を取り戻すという意識で取り組まなければならないのではないのです。

そうした意味で、私自身、長年携わってきた独立行政法人産業技術総合研所中国センター(1971年設立)の仕事は先進的な役割を担ってきたのではないかと思います。
ここには、世界最大の瀬戸内海大型水理模型があります。建設総工費16億(昭和46年当時)という費用を投じて作られた水理模型は、東京ドームとほぼ同じ大きさです。

瀬戸内海の大型水理模型

ここでは、瀬戸内海の実際の潮汐潮流を99%の再現性で一望できます。
模型の水平縮尺は1/2000、鉛直縮尺では1/159の歪み、海底の地形は詳細な海図を元に専門職人が手づくりで細部も丁寧に仕上げられました。
模型サイズの長さは230メートル、幅50 ̄100メートル、建屋の高さは23メートル、総面積17,200平方メートルという広大な規模です。さらに、この模型内に5,000立方メートルの海域水を流し込み、瀬戸内海に浮かぶ数多くの島や河口の埋立地、瀬戸内海に流れ込む73本の河川も再現して、河川流量も自動制御しています。そして実際の瀬戸内海の流れ通りに潮流を再現させるため、紀伊水道、豊後水道、関門海峡の3ヶ所に起潮装置を設置し、コンピューターで各種の潮汐を1?/1000の精度で発生させています。





この大型模型のおかげで、私たちは瀬戸内海の複雑な海流現象を見極めることができました。水理模型が再現する潮の流れと現場での実験データを重ね合わせることで、瀬戸内海が見せる複雑な動きを観察することが出来たのです。
現在は、この大型水理模型で実験データを集積することで、大規模埋め立て計画の適否、河川水や工場排水の拡散状況の検証やシミュレーション、流況改善への研究をしています。

瀬戸内海のような閉鎖性海域の環境を修復するためには、まず潮流をコントロールする流況制御が第一の課題でしょう。流れが遅くなると、どうしても海水の富栄養化が始まり、酸素が不足しがちです。そうなると、海域全体の循環を促す生物が減少し、富栄養化現象が加速してしまうのです。これは“海の死”が始まる予兆です。

ですから、潮の流れを修復することは、最も神経を払うべきテーマです。またこれと共に、水質や底質の改善を進め、生物が住める環境を徐々に取り戻してあげることも必要です。生物はウィルスから始まり、バクテリア、プラントン、そして海草、貝、小魚、魚といった具合に、生態系が段階的に豊かであるほど、海は健全な循環をするのです。

それぞれの生物が餌(窒素やリンなどの栄養塩)と溶存酸素DOを得、多様な生物が共生していることが、“豊かで美しい海”をもたらします。“美しい海”とは透明度ではないのです。ご承知のように、別府湾周辺は透明度が比較的よいようですが、海底付近の底層は無酸素海域です。つまり生物のいない“死の海”なのです。

尼崎港で進行中の最適な環境技術の追求



上嶋英機
Hideki UESHIMA

教授・工学博士 
広島工業大学 大学院環境学研究科 地域環境科学専攻
環境学部 環境デザイン学科
1944年、福井県敦賀市生まれ
1972年、通商産業省工業技術院中国工業技術試験所入所以来、
瀬戸内海大型水理模型を主体に、海洋環境及び海洋開発関係の研究に従事。
1997年徳島大学大学院工学研究科教授(併任),
2001年4月 独立行政法人 産業技術総合研究所に改組され
産官学連携コーディネータ・海洋資源環境研究部門 総括研究員。
2005年4月から広島工業大学環境学研究科教授に就任

これまで、瀬戸内海の利用と環境保全に関する研究を約33年間行い、瀬戸内海を初めと
する閉鎖性海域の環境修復・創造するためのミチゲーション技術の開発や、沿岸海域の利用や開発と環境とが共存できる設計を科学的に研究。特に、近年では、地球環境問題解決のための海洋環境産業の振興と、技術開発のための研究プロジェクト構築を推進している。
京都大学工学博士(海洋環境)。


私たち自身、地球上に存在する生物のひとつに過ぎません。生物たちが住む海を“美しい”と思い、“安全な海”としての愛情を抱くのではないでしょうか?

浜を歩けば、ハマグリ、シオフキ、赤貝、シャコ、コメツキガニ、ヤドカリ。磯にはヒトデ、サザエ、ヒザラガイ、紫ウニ、ススメダイ、メジナ。
人口護岸にはイワフジツボ、ムラサキガイ、アラレタマキビガイ、マガキ。
干潟にはダンゼンやチュウシャクシギなどの鳥類にハゼ。こんな風に生物の姿を目にすることで、“自分の海だ”という実感が湧き、“私たちの暮しと共にある海”という認識へと繋がるのだと考えます。

阪湾の潮流図
大阪湾の潮流図

私も参加しているプロジェクトのひとつに尼崎港の環境修復があるのですが、ここでは現在、港内の物質循環と生態系を回復させるための実証実験をしています。
この実証実験では、生物が生息できるための空間を構築するための人工干潟や水質を浄化・改善するための石積堤、海藻類を増殖するためのいかだ式藻場やマリンブロック(R)の設置などをしています。こうした実証実験を重ね合わせることで、将来に向って、ベストミックスとも言える最適環境修復技術の組み合わせが実現できると思うのです。
(後編へ続く)