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もう無理な治療はしない

――昨今の、木をめぐる私たちの考え方、とらえ方をどのようにご覧になっていますか?

 私ね、あるとき早稲田大学の学生から呼ばれて、話をしに行ったことがあるんです。自然環境をテーマとしたシンポジウムで、いくつかの自然保護団体も参加していました。そこで、ある自然保護協会の偉い方が、ある地域の植物や動物を守らなければならない、という主旨のお話をされたんです。その後、十名程度の分科会に分かれて自然環境について検討会を開きました。その分科会で私は、人間が生き物を守ろうとか、植物を守ろうとかおこがましいことを言わないでほしいって話したんです。私たちは大自然に守られて、木に守られて生きている。それを認識してほしいって。そして、言ったんです。いいんですよ、人類は早く滅亡すれば。人類がいなくなれば、地球の生命はドッドッドッと鼓動を打ち始め、蘇生しますよって。そうしたら、学生にはすごくショッキングだったらしくて、分科会の発表で「わがテーブルでは、人類が滅亡すればいいということになりました」って言って、波紋を呼んだんですけどね(笑)。ただ、私が言いたかったのは、もっと謙虚になりましょう、ということなんです。

――塚本さんは、木々との対話のなかで何を感じ取っていらっしゃいますか?

 樹木医になって十年ほど経ちましたけれど、数え切れないほどの木と向き合って、いま私が思うのは、「木は治療してほしいとは思っていないかもしれない」ということなんです。木は「この弱った状態が私そのものだから、無理に治すことはないよ。ちゃんとタネを撒いておいたから、それでいいんだよ」って言っているんじゃないかと。
弱っている木と向き合えば、私たちの心は痛みます。だから、木を治療するのは、自分たちのその痛みを和らげるためかもしれないんです。本当に木が治療を喜んでいるのかどうか、私にはわからなくなってきています。この感覚が強くなっていけば、やがて私は、木の治療ができなくなってしまうかもしれないですね。
 土壌改良はいいと思います。それは、今後もやっていくでしょう。でも、病んだ部分の幹を削ったり、モルタルを入れたりというような外科手術はできなくなるかもしれない、と思い始めているんです。だって、そんな外科手術をしたところで、たかだか十年、二十年、寿命が延びるだけなんです。何百年という木のいのちから見れば、わずかな時間でしょう?
 たとえば私が大病を患って植物人間のような状態になったとします。そうしたら、私は早く死なせてほしいと思います。逆に寝たきりになった人に生きていてほしい、と思うのは、残される自分が辛いからなんです。それと、同じです。私は木のことを考えるとき、いつも自分に照らしてみるんです。自分だったらどうかな?って。私が樹木医になって初めて診た木がね、樹齢700年の松だったんです。お寺に植えられていました。住職さんや檀家さんが集まって、この松を自分たちの代で枯らすわけにはいかないから、なんとかしてほしいと頼まれました。静岡県が指定した天然記念物だったんです。
 私が初めてその木と向き合ったときの第一印象は、「早くこの木を安楽死させてやりたい」というものでした。8割、9割ボロボロになっていましたから。
 だから、倒れても隣の民家に損傷がないように支えをして、それ以上の措置は何もしないほうがいいように思う、寿命をまっとうさせてあげてください、とお伝えしました。ただ、土に酸素剤とアミノ酸、木酢液をたっぷり撒いてあげました。
 そうしたら、翌年に新芽がいっぱい出たんです。そのときは「ああ、この松はまだ生きたかったんだ。安楽死させてやりたいと思って申し訳なかったな」って(笑)。それから、10年経っても、その松は変わらずに元気です。ひょっとするとさらに10 年、20年は生きるかもしれない。でも、今後どんな状態になったとしても、余分な治療は一切しないつもりです。これからも、松の生きるちからに任せたいんです」
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